夏の道北~道東 07 朱鞠内
宗谷本線ルートを外れた目的は、この朱鞠内湖 (しゅまりないこ) を眺めてみたかったからなのです。
朱鞠内湖 ・・・ 雨竜川を堰き止めて造られた人造湖。 戦時中に完成した雨竜第1ダムなどによって形成されたこの湖は、人造湖としては日本最大の面積を誇ります。
朱鞠内湖の周辺は広大な原生林に包まれており、朱鞠内道立自然公園に指定されています。 また、朱鞠内は道内有数の低温地域で、冬期は氷点下30度を下回る日も少なくありません。
『朱鞠内』の語源はアイヌ語の『シュマ・リ・ナイ』=『石がたくさんある川』、または『シュマリ・ナイ』=『狐の川』。
北海道開拓時代を描いた手塚治虫の作品に、「シュマリ」という漫画がありましたね。
これらの写真は、国道275号沿いの展望台から。
うおおお! この原生林っぷりがタマラン。 (;´Д`)'`ァ'`ァ
漢なら、この地図と航空写真を見て血が騒ぐはず・・・
より大きな地図で 120813稚内~旭川 を表示
国道から湖岸に入って、また展望台。
小雨ぱらつく天候ですが、かえってそれが神秘的。
湖面に浮かぶ小島がステキ。
湖底に沈む前の地形を想像すると・・・ああああああ! ヽ(゚∀゚)ノ
島にコンクリート建造物・・・ なんだあれ、行ってみてえ!!
あの湖岸を歩いてみたい、けれどもヒグマが出るので危険なのです。
あら、カヌー。 すっげえ楽しそう!
で、この展望台には鉄骨の足場があるのですが、老朽化で立ち入り禁止・・・。 左側にあるのは殉職者慰霊塔です。 雨竜ダム建設の際に、いわゆるタコ部屋労働で亡くなられた方の慰霊碑。
これがその雨竜第1ダム。 水力発電用のダムです。
益谷秀次の胸像があります。
吉田茂内閣閣僚、衆議院議長や副総理を歴任した政治家。
胸像には、幻の名羽線について書かれています。 (カッコ内は俺の註)
名羽線鉄道建設経過
明治41年3月3日 名寄-羽幌間の鉄道建設の議起こり有志16名による路線踏査を実施する
大正11年4月11日 法律第37号鉄道施設法により予定線としてあげられる
昭和16年11月10日 深名線名寄-朱鞠内間開通する
大東亜戦争のため運動中止
昭和27年3月22日 名寄 羽幌 幌加内 3市町による名羽線全線促進期成会を結成し茲 (ここ) に強力なる連動体制を整える
昭和31年6月20日衆議院議長益谷秀次先生名寄市来訪に接し名羽線鉄道建設に対し陳情したる処本線の全通に努力することを快諾せられた
昭和32年4月3日 調査線に決定
昭和34年11月9日 建設線に決定
昭和36年4月25日 着工決定
昭和37年4月22日 国鉄札幌工事局主催による起工式を羽幌町に於いて挙行
以上の如く本線が順調に着工することが出来たことは益谷翁の御盡 (尽) 力によるところ洵 (まこと) に大きく茲 (ここ) に翁の御功績を讃えるため昭和37年6月18日幌加内朱鞠内湖畔にこれを献立して永久に翁の面影を偲びつつ感謝申上げる次第である
昭和37年6月18日
名羽線全通促進期成会建之 (これをたつ)
名羽線とは、深川~朱鞠内~名寄を結んでいた深名線 (後述) を朱鞠内から日本海側の羽幌まで分岐させる予定だった路線です。
碑文は、要するに
『名羽線建設着工おめでとう! 益谷先生ありがとう!』
って内容なのですが、名羽線は建設途中の1980年に計画が凍結され、そのまま放棄されています。 一部の線路は石炭輸送に使用されていましたが、炭坑閉山・ダム建設終了・林業斜陽化で利用客確保の見込みが全く立たなくなったようです。
この胸像は、北海道内の鉄道網が拡大に向かっていた時代の、最後の記録であるように思われます。
先述の深名線ですが、深川~名寄を結んでいたこの路線も1995年に廃線となっています。
当時の朱鞠内駅跡地はバス待合所とパークゴルフ場になり、現在はレールと駅名票が遺されているのみです。
ちなみにパークゴルフとは、北海道で盛んなパターゴルフ風スポーツで、専用のクラブとボールを使用します。 長野県で言うマレットゴルフみたいなものかな?
このパークゴルフ場と待合室を管理している年配の方から、いろいろお話を聞くことが出来ました。
( ゚д゚)y-~~ 『炭坑と林業がダメになって、人が減っちゃったよね。 観光客やライダーも昔ほどじゃないし・・・。』
( ゚д゚)y-~~ 『ここは北海道でも積雪が多いし、気温も低いから冬は大変だねぇ。』
( ゚д゚)y-~~ 『私は通いで来てるからいいけど、ここは店がないから買い出しが大変みたいだね~。 1週間分食料買い溜めしたり。 移動販売業者はちょくちょく来るみたいだけどね。』
( ゚д゚)y-~~ 『ああ、ここいらはヒグマが出るよ。 あと多いのがキツネ。 キャンプ客がサンダルを持って行かれたりしてね~。』
こーゆー話を聞くのが好き。 ありがとうございました!
赤ん坊の頃の俺がこの朱鞠内駅で、旅途中の母親に抱かれて列車交換待ちをしている写真が実家にありました。
30数年ぶりの、再訪。
つづく。