八面大王考2
八面大王、第2回です。
こちらは八面大王の耳が埋められたという大塚神社。
拝殿奥の祠が耳塚です。
ここの地名はズバリ『耳塚』。
耳塚→大塚に名前が変わっているようです。
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そして耳塚から北北西5kmほどのところに、足が埋められたという立足地区が存在します。
ここは地名と伝承が残るのみで足塚なるものは存在しないようです。
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ちょいと一息入れて別の昔話。
これは、有明山神社にほど近い松川村鼠穴地区にある鼠石。
この岩にあいた小さな穴について言い伝えが多くありまして、
1, 有明山頂の金明水・銀明水の湧き穴に通じている (゚Д゚ )
2, それどころか善光寺まで通じている (゚Д゚;)
3, この穴に棲む鼠が膳椀を貸してくれたが、欠損した椀を詫びもせずに返した者がありそれ以降膳椀は出なくなった
4, ネズミ=不寝見 で、ここに豪族居館の物見があった
1~3は、全国共通で見られる抜け穴伝説と椀貸し伝説ですね。
4に関しては若干の信憑性が感じられます。
また、田村麻呂とともに安曇族を滅ぼした仁科氏の史書・仁科濫觴記(にしならんしょうき) によると、『ここに鼠賊(=アヅミ族?) が立て籠もっていたのを討伐した、ゆえにここを鼠穴と称する』 なる記述があるそうです。
本書には『八面鬼士大王と名乗る面を被った8人の首領』が登場しますが、彼らと鼠賊が同一の者かは不明です。
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さて、場所は移ってここは松本市筑摩(つかま)神社。
ここには首を埋めた首塚があります。
本殿の左手にある飯塚がそれです。
塚の石碑によると、
飯塚(鬼塚)の由来 桓武天皇の御代安曇郡の中房山の北、三社の岩やに八面大王またの名は魏石鬼と云賊住み群り出でヽ人民を長い間苦しめた 此の事帝に達し、田村麿将軍及雨宮殿吉田殿に鬼賊退治の宣旨が下された 一団となつて信濃に下向延暦廿年六月十一日朝神を奉じ中房山に攻入れは賊は敵対出来ず朝日に向う雪氷の消ゆるが如くその日の午頃魏石鬼を始め鬼賊悉く討亡ぼされた 長たる者の首三十六を持つて凱旋しこの地に塚を築いて葬り飯塚といい後に鬼塚と呼ばれるようになつた
昭和四十一年五月十七日 建之
首三十六、ですか。 うーむ。
社名にもなっているこのあたりの地名 筑摩(ツカマ)は『塚魔』から来た、などという記録もありますが、これはちょいと眉唾かな。
ともかくこれで胴・耳・足・首 っとコンプリートです。
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しかし、八面大王とは一体何者だったのかという疑問に対する解答は結局得られていません。
そもそも『八面大王』 が個人を指す者なのか、それとも安曇族のリーダー達の総称だったのか、いやそもそも八面大王が安曇族だったのかもはっきりしません。
けれども、彼(彼ら)の伝承が一千二百年余り後の現代まで伝えられていることを考えると、この一件は当時の人々にとってはかなり大きな事件であったと思われます。
もちろん、敗者の力を大きく記すことによって相対的に朝廷の力を強大に見せる、という常套手段によって八面大王を人外の力を持つ鬼として流布した一面もあるでしょう。
ただ、菅原道真の例のように畏れとともに同情・哀悼の感情を多くの人々に抱かせた存在ではあるようです。
もうちょっと、余談的な話が続きます。