鎌倉写真上げ。
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初日、長野より3時間強で鎌倉。鉄道万歳。
そして、鎌倉駅より徒歩10分ほどで鶴岡八幡宮に至ります。

鶴岡八幡は、1063年に鎮守府将軍源頼義が石清水八幡を鎌倉へ勧請した事から始まりました。
この頃、頼義・義家親子は朝廷の意向に従わない東北の勢力と交戦状態にあり(前九年の役)、戦勝祈願のために八幡宮が作られたと伝わっています。

この時代の歴史をダイジェストで紹介しますと、
前九年の役 ・・・ 独自の勢力を築いた奥州が朝廷の納税命令を無視、独立戦争勃発
結果 : 朝廷軍(源頼義・義家&清原武則) ○-● 奥州軍(安倍貞任・藤原経清)
後三年の役 ・・・ 奥州統治を任された清原氏に内紛勃発、そして源義家が参戦
結果 : 源義家・清原清衡 ○-● 清原武衡・清原家衡
清衡は経清の息子 → 藤原清衡と改名 → 奥州藤原氏の始まり
源義家 → 朝廷は私闘として知らんふり → 恩賞は義家自腹 → 武士「義家かっけー」 → 義家神格化「八幡太郎義家」 → 鎌倉幕府成立の遠因
この辺のお話は高橋克彦氏の「炎立つ」を読んでくださいな。
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境内の源氏池。
「産」に通ずる3つの島があるらしいのですが蓮に隠れて見えません。
この時期は、紫陽花は落ちて、蓮はまだ蕾という半端なタイミングらしい。

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2日目はJR北鎌倉駅からスタート。

徒歩5分で東慶寺、通称縁切寺です。
中世、女性からの離縁が認められなかったため、特例として女性が尼として2~3年勤めることにより離婚が成立するという特権を持った寺ができました、つまり駆け込み寺です。
BGMはさだまさしの「縁切寺」でヨロシク。
実際には、夫婦双方や名主などの意見を聞き、妥当であると認定されなければ縁切りできなかったようです。
また、東慶寺の初代住職は覚山尼、元寇を撃退した北条時宗の正室だった方だそうです。

現在はもちろん男子禁制ではなく、駆け込み制度もありません。
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こちらは境内奥の墓。 涼しくっていいキモチ。
後醍醐帝の娘・用堂尼、豊臣秀頼の娘・天秀尼らが眠っています。
崖に開いた穴は「やぐら」と呼ばれ、この横穴の中に墓石が立つという方式は鎌倉独特のものです。

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北鎌倉駅へ戻って徒歩1分、鎌倉五山第二位円覚寺です。
円覚寺は1282年、北条時宗による創建。
元寇での戦没者を弔う、臨済宗円覚寺派総本山です。

ι(´Д`υ)アツィー

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境内に重爆撃機地蔵様。

呑龍地蔵大菩薩 呑龍(百式重爆撃機)を操り、大東亜の空を雄飛し、フイリッピン作戦では、数次に亘るレイテ、ミンドロ爆撃を、殉国の士は菊水特攻隊を編成し、敵機動部隊に必殺の肉弾体当たり攻撃を敢行し、或いはタクロバン敵飛行場に空挺隊員と共に強行着陸して斬込隊となる。尚又残留部隊は瘴癘の地、良く飢餓に堪え、多勢の敵に勇戦。遂に悠久の大義に就く、まさに鬼神を泣かしむ。幸に本日我等の悲願成り、呑龍地蔵大菩薩を開眼し、戦病没全英霊の供養を為す。呑龍地蔵大菩薩希くは世界の平和と、我等戦友の至福と日本民族の繁栄を護り給え。
昭和五十二年三月二十日 第五飛行団 飛行第七十四戦隊 飛行第九十五戦隊 生存者一同

敬礼、そして合掌。